私の住んでいる農村では、高度経済成長が始まる昭和30年(1955年)以前には、プロパンガスも水道もありませんでした。農業の動力は、牛や馬でした。生活の燃料には、薪、落ち葉(松葉)、麦わら、もみがら、炭、練炭などを使用していました。その当時、「天然記念物」という言葉はありましたが、「絶滅危惧種」という言葉はありませんでした。現在70歳以上(昭和20年以前に生まれた方)は、昭和25年~30年頃の農村の風景を覚えていることと思います。私の小学生の頃が、この時期に当たります。
今から思えば、理想的な循環型社会で、生態系は保たれていました。過去を知る人が少なくなる中で、石油エネルギーが農村に普及する前の昭和25年~30年(1950年~1955年)頃の農村の風景を、思い出しながら描いてみました。

昭和30年の農村

農村の春(4月~6月)

春は田植えの準備から始まります。牛に鍬(すき)を引かせて田んぼを耕します。田んぼに水を入れ牛を使って代掻き(しろかき)をします。農家にとって、牛は最も大切な宝物で、母屋の中で飼われていました。牛の息遣いが常に聞こえるように、玄関の土間の横に牛の部屋がありました。
入母屋作りの家の屋根は、麦わらで葺かれていました。屋根の骨組みに竹が使われていました。家の壁は土壁で、割った竹を格子状に縄で編み、稲藁(わら)をきざんで粘土質の土に入れ込んで、練ったものを使用しました。竹は貴重な建築資材として利用されていました。
川の水面より高い田んぼへは、人力の水車(踏み車)で水を汲み上げていました。その当時、水車は高価な物でした。田植えは、家族や株内(かぶうち)の総出で行いました。小学校は田植え休みになり、当時小学生だった私も田植えを手伝いました。


農村の秋(10月~11月)

秋は収穫の時です。鎌で、稲の株を4株ずつ刈取り、藁で束ねました。籾(もみ)を乾かすために、稲架け干しが行われました。足踏みの脱穀機で稲穂から籾を落としました。脱穀した籾を、稲藁で作った莚(むしろ)に広げ、天日で乾燥させました。莚が湿気ないように、莚の下に麦わらで編んだこも(薦)を敷いていました。当時の農家は、籾を乾かすための広場を持っていました。


続く