備中高松駅を降り、東側の踏切を渡りコンクリート造りの巨大な鳥居をくぐる。用水路を渡り右手に曲がり、自転車道を300m下ると山の付け根に高松城水攻め築堤跡が保存されている。
織田信長の中国攻めの命を受けた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、備中高松城を攻めあぐね、決断した戦略が水攻めであった。ここから、現在の足守駅まで、約3kmの堤を12日間で築いたと伝えられている。


築堤跡の山添の道を西に歩くと、集落に入る。突き当りを北に曲がると持宝院がある。持宝院の北隅で右に曲がって、山道を東へ登っていくと清水宗治の首塚跡にたどり着く。
その当時、持宝院は山中にあり、秀吉の本陣が持宝院に置かれた。清水宗治の御首は、秀吉軍側に渡され、検視後持宝院境内の南東の片隅に埋葬された。胴は、高松城に持ち帰り、城の西北の池の下丸に埋葬された。
山中にあった首塚は、明治42年に参拝者の便を計って、高松城址に移設された。
今回は、左に曲がり、高松城址へ急ぐ。稲荷への車道を渡り、青山歯科医院の南を通り過ぎると、右手に星友寺が見える。星友寺の塀沿いに東に行くと、清水宗治が小船上で自刃した場所で、両軍の戦士将兵の冥福を祈るための供養搭が建立されている。
備中高松城は、清水宗治を城主とし、中国地方の大大名毛利の出城であった。城は、周辺の湿地帯を利用した平城であった。
天正10年(1582年)水没した高松城を取り囲んだ秀吉の軍勢3万と西側を遠巻きにする毛利の援軍4万が相対した。6月2日の本能寺の変を知った秀吉は、毛利側から出された和議に応じた。その和議は、「城主清水宗治の切腹と高松城の明け渡し、かわりに城兵五千の助命」であった。6月4日、小船で漕ぎ出た宗治と供の者は、杯をくみかわし、秀吉軍の見守る中で自刃した。
すぐさま、姫路城へ大返しし、山崎の合戦で明智光秀を打った。この戦いが、織田信長の後継者として秀吉の地位を不動のものにした。明智光秀にとって、中国攻めの秀吉の軍の引き返しが早かったのは誤算であった。高松城水攻めの場面は、歴史が動いた分岐点としてNHKの戦国時代の大河ドラマに必ず取り上げられる。
自分の命と引替えに、ろう城した五千の兵を助けた清水宗治公の遺徳をしのんで、命日に近い6月の日曜日に、毎年、高松城址で宗治祭が行なわれている。
浮世をば 今こそ渡れ 武士の
名を高松の 苔にのこして
清水宗治の辞世の歌で、長野前知事の書になる歌碑が建立されている。
高松城址公園には、資料館があり、水攻めに関する資料を展示している。
高松城址の整備の一環で、城址の周辺をに水壕造ったところ、自然発生的にハスが繁殖し、美しい花を咲かせる蓮池となった。掘り返したことにより、地層に埋もれていたハスの種から、芽生えたのであろう。
ハスの見頃は、7月の中下旬で、早朝には写真愛好者の姿が見られる。

高松城址の西側から北へ自転車道が最上稲荷へつながっている。自転車道は、ため池や山の裾野を巡るように整備されていて、里山の雰囲気が残っている。あぜには、タンポポの花が咲いており、この辺りは「日本タンポポ」である。最上稲荷の境内へは、西の側道から入る。
最上稲荷は、日本三大稲荷の一つで、商売の神様として繁栄している。初詣は、県下一の参拝者でにぎあう。鉄筋造りの壮大な本殿が、威容を示している。江戸時代に建築された茅葺の旧本殿は、北側の高台に末社に取り囲まれて、鎮座している。
元気のある人は、龍王山(287m)の山頂にある奥之院一乗寺を訪れてみよう。最上稲荷の旧本殿の横に、奥之院に通じる石段がある。急な石段をゆっくりと登っていく。大きな岩場に咲くツツジが彩りを添える。石段が終わり7合目付近に広場があり、石造りの鳥居と一対の石燈ろうが立つ。左に曲がると龍王池、龍泉寺への道である。
奥之院への参道の両側に、大小さまざまな石碑が立ち山頂まで続く。山頂にも大きな石碑が群立し、異様な光景である。現在は、北側から車で登れる道がついているが、その当時はどのようにして大岩を運んだのだろうか。
この山頂は、雨乞いの地で、八大龍王を祭る。寺の東側の坊からは、ご来光が拝める。
健脚の方は、龍泉寺から足守駅へ出るコースを選択するのも良い。今回は、来た道を引替えし、最上稲荷本殿まで下りる。
帰りは、本殿から正面の石段を下り、インド風の石造りの仁王門をくぐり、土産物屋の並ぶ門前町に入る。「吉兆」「だるま」「招き猫」「キツネの置物」「神棚」それに名物の「ゆずせんべい」を並べた店が、独特の雰囲気をかもし出している。あいにく今日は平日のため、シャッターを下ろした店が多く、初詣の華やかさはなかった。
稲荷から備中高松駅まで直線に延びた遊歩道を歩いて帰る。この道は、備中高松駅から稲荷まで,
戦前鉄道が乗り入れており、その廃線を利用した参道とのことである。
羽柴秀吉が難攻不落な高松城を水攻めしていた最中に、明智光秀による「本能寺の変」が起こりました。高松城水攻めは、秀吉が織田信長の後継者に躍り出るターニングポイントになりました。
1565年(永禄8年)
清水宗治 高松城主になる
1574年(天正2年)
清水宗治 毛利氏に属する
1577年(天正5年)
羽柴秀吉 中国攻めを開始
1580年(天正8年)
秀吉 別所長治の三木城を落城させる
黒田孝高(官兵衛) 秀吉に中国攻めの居城として、姫路城を譲る
1581年(天正9年)
秀吉 鳥取城を落城させる
小早川隆景 三原城に備中七城の城主を招く
3月15日
秀吉 2万の軍勢を率いて姫路城を出陣
4月15日
秀吉勢 龍王山に着陣
5月1日
秀吉 水攻めを決定する
5月8日
秀吉 築堤工事に着手する
5月11日
秀吉 石井山に本陣を移す
5月15日
秀吉 織田信長に援軍の要請
5月17日
明智光秀 徳川家康の接待役を解任され、居城の坂本城に帰る
5月19日
築堤が完成する。数日で満水となり、高松城は孤立する
5月21日
毛利の援軍、4万が到着。小早川隆景は日差山、吉川元春は庚申山、毛利輝元は猿掛城に陣取る
5月28日
明智光秀 京都愛宕山で、百韻連歌会を開く
5月29日
信長 秀吉を応援するために、わずかの供で安土を発つ
信長 本能寺で軍勢が整うのを待つ
6月1日
信長 本能寺で茶会を開く
光秀 夕刻、丹波亀山城を出る
6月2日
光秀 未明に、本能寺を襲撃し、信長を自害させる
6月4日
光秀勢 近江をほぼ平定する
秀吉 毛利氏と講和を結ぶ
清水宗治 小船を浮かべ、舞をまい、湖上で自刃する
徳川家康 難をのがれ、堺から岡崎城に帰還する
6月5日
光秀 安土城に入る
光秀勢 長浜城を落とす
6月6日
秀吉 備中高松を引き払い、備前沼城に入る
6月7日
秀吉 洪水のため足止め
6月8日
秀吉 姫路城に帰還
6月9日
秀吉 姫路を出発し、明石に到着する
6月10日
光秀 筒井順慶の出陣をうながすため、洞ケ峠に滞陣する
6月11日
秀吉 尼崎に到着する
6月12日
光秀勢、秀吉勢、京都天王山付近で対峙
6月13日
山崎(天王山)の戦い、光秀、落ち延びる途中で農民の武者狩りに会い死す
出典:高松城址水攻め史跡公園の案内板(岡山市教育委員会記述)、謎とき本能寺の変(藤田逹生)講談社現代新書、Wikipedia他
毛利氏にとって外様であった清水宗治が、身をもって示した忠誠心に対し、毛利家は清水家の子孫を明治維新まで重臣として処遇しました。宗治死後も、清水家は今日まで繁栄しています。
清水宗治の威徳を偲んで、清水家関係者及び高松地区の住民が中心になって、毎年6月第一週の日曜日に、「宗治祭」が営まれている。