吉備路の由来

岡山県の代表的な観光スポットとして「吉備路」の名称が定着したのは、そんなに古くありません。昭和42年(1967年)当時、岡山県教育庁文化課課長をされていた神野力(かんの つとむ)先生が、名付け親と思われます。神野先生は総社市のご出身で、昭和42年に出版された書籍「吉備路」岡山文庫(日本文教出版)の冒頭に、「吉備路について」と題して記述されています。

神野力先生の書籍「吉備路」からの要約と抜粋

「吉備路」と比較される「大和路」「出雲路」は、「大和国」「出雲国」の地方を称し、特定の道があるわけでない。「吉備国」は、「備前」「美作」「備中」「備後」の4カ国に分かれ、大和や出雲と比較にならない広い地域である。

<抜粋>

「あえて吉備路と題したのは、実はつぎのような理由からである。

1.このコース自体が旧山陽道筋であり、古墳時代を考えても、おそらく吉備国全体を支配したであろう豪族の古墳が点在して、当時における吉備国の中心をなしていた。

2.古事記や日本書紀に記載された吉備津彦命すなわち、後世吉備国の総氏神として祭る吉備津神社及び同じ祭神を主神とする備前一宮等も、この地域に所在する。

3.明治になってからではあるが、総社市を含めて、この地域の主要部分が吉備郡と名づけられて現在に及んでいる。

以上のうち第三項は別にして、事実この線はただ地方史の立場だけでなしに、日本歴史上からも重要な遺跡が密集して残っている地域であり、なおかつその環境が比較的よく昔時の姿をたもっているのである。したがって、狭義の解釈をすれば、吉備路という言葉がもっともよくあてはまるところである。」

名称「吉備路」の定着

昭和46年(1971年)1月から9月まで、山陽新聞社が「吉備路」と題して新聞に連載しました。同じ年に、その連載記事を1冊の本「吉備路」(山陽教養シリーズ山陽新聞社)として出版しています。この当時、県立高校は学区制を採用しており、県立総社高校の学区は、総社市、吉備郡高松町・足守町・真備町、都窪郡山手村・清音村で、神野先生が定義された「吉備路」とほぼ一致していました。( 昭和48年行政図 を参照 )

その後、総社市、山手村を中心に岡山県、岡山市が、村おこし、町おこしとして、整備と保存を進め、岡山県の観光地となりました。特に、国分寺周辺については、地域の方々のご努力で景観が保たれ、「吉備路」と称するにふさわしい環境を現在も維持しています。

 

明治から大正、昭和、平成と合併の歴史を繰り返してきました。「吉備郡」と「都窪郡」の行政区分変遷の過程で、「吉備路」の名称が生成されてきたことが理解できます。

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昭和2年(1927年)の行政地図

昭和2年(1927年)に出版された地図をベースにして、吉備郡、都窪郡の行政区分の変遷をたどる。
明治21年(1888年)に市・町村制が、明治23年(1890年)に府県・郡制が公布された。1890年から1927年の間に、変更された箇所は、総社町と浅尾村が合併して新しい総社町が、高松村が高松町に変更されたぐらいである。昭和2年(1927年)の地図は、ほぼ明治の市町村制を表している。
この当時の吉備郡と都窪郡の位置づけを見て欲しい。都窪郡三須村、都窪郡常盤村、都窪郡加茂村である。都窪郡清音村、都窪郡山手村とともに、現在の「吉備路」の中核をなす地域は、この当時、都窪郡に属している。

昭和2年(1927年)の吉備郡・都窪郡

この地図を元に平成の大合併までの変遷を追っていくが、航空測量などない昭和2年出版の地図であるので、現在の地図ほど正確でない。

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昭和36年(1961年)の行政地図

昭和2年から昭和36年の間に、都窪郡から吉備郡に編入されたのが加茂村、三須村、常盤村である。吉備郡から、都窪郡へ庭瀬町が、御津郡へ菅谷村が、上房郡へ大和村が、浅口郡に穂井田村の一部がそれぞれ転出している。
吉備郡が、総社市、高松町、足守町、真備町、昭和町で構成された時代である。(厳密に言えば、市になると郡から外れるのであるが、「吉備路」の由来を考える上で、市も郡に含めている。

昭和36年(1961年)の吉備郡・都窪郡

吉備郡と都窪郡のエリアの山陽道を中心に、遺跡、神社・仏閣が点在している。

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昭和48年(1973年)の行政地図

昭和46年(1971年)には吉備郡高松町と足守町が岡山市に編入され、昭和47年(1972年)には、吉備郡昭和町が総社市に編入された。吉備郡真備町だけが、吉備郡の名称を残していた。神野先生が、「吉備路」の理由付けにあげられた上述の第三項の吉備郡の地名は、この頃から失われてきた。

昭和48年(1973年)の吉備郡・都窪郡

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平成19年(2007年)の行政地図

平成17年(2005年)には、都窪郡山手村・清音村が総社市に編入し、吉備郡真備町が倉敷市に編入された。この平成の大合併で、「吉備」の地名はなくなった。
吉備路に点在する遺跡の中には、2000年ほど前の古代吉備国にまでさかのぼる遺跡がある。その歴史から見れば、行政区分の変更は一時的なもので、我々が歴史を伝承していけば、今後も「吉備路」の名称が残ることと思う。

平成19年(2007年)の吉備郡・都窪郡

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平成の大合併

2005年~2007年の平成の大合併で、「吉備郡」の地名は無くなってしまいました。 行政の効率化で、行政区分が広域化することは望ましいことですが、受け継がれてきた地名が消失することは、もったいない感じもします。
「吉備路」についても、総社市、岡山市、倉敷市に包含され、「吉備」の名前が付く地名は消失しました。平成の大合併で、上房郡賀陽町と御津郡加茂川町が合併して、新しく「加賀郡」が設置され「吉備中央町」が誕生しました。「吉備中央町」は、古代「吉備国」の中央に位置しており、適切な名称であろう。このホームページのテーマで取り上げている「吉備路」の「吉備」とは、カテゴリを異にしています。
「JR吉備線」の名称の「吉備」が、どこから由来してきたかが、2000年以降に生まれた人たちには分からなくなるかもしれません。

以上、明治23年らの行政区分の変遷と「吉備路の由来」について、調べた範囲で記述しました。誤りがありましたら、訂正いたしますので、お知らせ下さい。

平成19年(2007年)の岡山県行政区分

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